コロナが日本でも流行し、外出自粛やリモートワークなどが継続して早いもので一年が経ちました。
辛い思いをされている方も多いなかで心苦しさもありますが、在宅ワークにも慣れ、息子の成長をそばで見守れる喜びを日々感じています。
一方で、仕事を家ですることによって妻の生活のペースを乱してしますので、夫婦関係に亀裂が入ったりと結構むずかしいものでがありますね。
原因は明らかで、「会社に行っているのと同じものだと考えて仕事に専念、自分のことはいないものだと扱ってほしい旦那」と、「旦那が家で仕事をしているせいで、ご飯を用意したり、オンライン会議のせいで子供と遊んだり寝かしたりに気を遣い気が滅入っている妻」という関係性です。
これ、対比のように書いてしまいましたがそれは誤解で、要は旦那側の甘えですね…。家で過ごしているのならば、お互いに過ごしやすいように配慮をし合うことが不可欠です。
さらにうちは狭いアパート暮らしで仕事部屋が確保できていないので、メインの生活スペースと仕事スペースがバッティングしています。これが辛い。先立つものがあれば引越しも検討したいものですが、今の社内外の情勢的になかなか…。
コロナにかかってくれるなよ、という妻からの圧がすごい(心配してくれてる、っていうふうに受け取れないのがよくない関係性ですね…自覚ありです)ので、子供の写真ばかりですが撮影枚数はめちゃくちゃ増えました。
趣味も仕事も写真・カメラ関係なので、関心ごとはやはり写真のみ。写真を撮っているときが一番気持ちが晴れます。写真は良い趣味のひとつとされる由縁かなと思いますね。
ふと、「なんで写真を撮るのか?」そんなことを考えてしまうのは、心のあり方を問われる時世だからでしょうか。
カメラを初めて手にしてからの10年あまりは、「機材を試したい」その一心からでした。いろんな製品のことをよく知ることで、カメラ屋で働く、メーカーと取引をするうえでは大きく役に立ったからです。
では、今はどうか…?根本にある機材への探究心は変わりません、いまでも病的に欲しています。笑
しかしながら、仕事で多くの写真家さんや、業界で生きる方々と意見を交わすなかで少しずつ「自分を表現したい」という感情が芽生えてきた気がします。
「自己表現」なんていうとアーティストを目指しているみたいですが、そんな大それたもではありません。僕は一眼で撮る写真に「自分の眼差し」を表現したいと考えるようになりました。
ありふれた言い方かもしれません。でも、今この瞬間、レンズ越しに自分の目に映ったもの、感じたものをシャッターを切ることで封じ込めたいのです。
僕にはこの写真の息子他に、前妻との娘が二人います。離れてから6年近く毎月会っていたのが、今は外出自粛や今の家族の目もあってなかなか行くに行けない感じ。
もう長女は小学校を卒業間近で、次は中学生…。
子供たちとの関係が今後どのようになっていくかは、自分の気持ちだけではどうしようもないところもあるので正直想像しきれていません。
ただ、今は愛しいその姿を大事に写し止めたいと思います。(娘は年頃で嫌がりますが)
いつか娘たちにも、息子にも互いの存在を伝えなくてはならないと思います。
どう感じるのか、傷つけてしまうだろうか、いろんな思いが去来します。
言葉とは実は曖昧で、相手やそのときの空気にあわせて如何様にでも伝えることができます。もちろんそれによってうまくいくこともあるし、失敗することもあります。
その点、写真は基本的には「そこに実在する事実」を写します。もちろんタイミングや画面の構成要素、それこそ仕上げなどに作画意図を加えることでさらにいろんな見方をさせたり、想像を膨らませたりもします。
でも、自分の視点で写した正直な写真には、言葉とは違うストレートなメッセージが宿るのではないかと思います。
彼女が、彼が大きくなったときに「あの頃は」「今は」言葉にしきれなかった父の想いを、写真から感じて欲しいのです。完全にエゴですが。
写真:PENTAX K-1 Mark II, smc PENTAX-FA 50mmF1.4
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